文・写真 梅坪 弥代 「夏の旅」 札幌スタッフ
S-Air主催、レジデント・アーティストの歓迎会に、向井山朋子がゲストで参加しました。
二人の招聘作家(アメリカ人、メキシコ人)と、ゲストである、スペインからの写真家、イタリア人アーティストと向井山朋子、さらに今年から市立大学メディア・アート学部助教授のドイツ人、多くの札幌出身のアーティストらを囲み、パーティーは盛り上がりました。
そこでパチリ。
札幌を離れ、京都へ旅立ち、「夏の旅」公演には来ることができない2人のヴィジュアル・アーティスト(スペイン人とメキシコ人)に、この「夏の旅」の説明を具体的に話していた時、不思議なことですが、「夏の旅」の私の印象が明確となりました。
物を作る、物を使用する作家(ヴィジュアル・アーティスト)によるインスタレーションでは、音を使用していても、それらは主に視覚を先に刺激する(ことを意図された)作品です。
訪れ見に来た人は空間の一部となり、作品の一部となるとしても、「作品」と「見る側」であって、「作家」と、「作品」と「見る人」を含めたインスタレーションにはなりません。もしかしたら、それは「作家の分身」と「見る人」であるかも。作家の分身の方が、作家本人より語ることが多いという印象です。
一方、今回の「夏の旅」では、何かエネルギーのようなものが作品(ピアニスト)からそのまま作り出され、その渦は場所、空間、人、それぞれの思い出などを巻き込みます。参加者がインスタレーションの一部となるため、一般的な演奏会のような「ピアニスト」と「聴く側」の境界線はありません。
そして、ピアニスト本人なくしては、作品になりえない。
しかしながら、曲中、時に主人公はピアニストとは限りません。
もしかしたらそれは、地域に実際に住む人々がワークショップで採集したまちの音を、向井山朋子がリミックスしたことにも関係しているでしょう。採集した音をCDなどで聴く場合、通常、生の音に鮮度的には勝るのは難しい。本物らしく聴こえるようにすればするほど、嘘っぽくなることもあります。それとは対比的に、「夏の旅」では、向井山朋子による生のピアノの音によって採集済みの(今年の春の)まちの音が生き生きとして聞こえます。
「夏の旅」では聴覚だけではなく、視覚も重要な要素です。会場によっては嗅覚も影響を受けているかもしれません。
ピアニストが作品の中央であるのだけれど、曲が始まると生まれるその見えない空気、気の流れは、通常のピアノコンサートで味わえない感触と余韻を残します。
あ、コンサートについて話しすぎていますね。最終公演(7月27日 札幌)がまだ終わっていないというのに。。
でも、今晩あらためて、「インスタレーション」と一言で言っても様々な方法があると実感しました。