文・写真 竹田 直樹 (ラウンドスケープアーキテクト/フォトライター)
2004年6月8日(火)可児 雨
旅芸人になる
for family ~ うちのピアノ ≪宅配コンサート編≫
アムステルダム在住の向井山朋子は、ロンドンシンフォニエッタやロッテルダムフィルハーモニーなどにソリストとして招かれ、現代音楽の第一線で活動するピアニストである。同時に美術家、建築家、コンテンポラリーダンサーなどとのコラボレーションや、一人の観客のためのコンサートシリーズ「for you」をヨーロッパや北米で展開するなど音楽の新しい可能性を開拓し続けている。そんな彼女が、4日間、岐阜県可児市周辺で、公募によって選ばれた17家族のために家庭のピアノを演奏する宅配コンサート「for family」を行うという。
可児市は名古屋から一時間ほどの郊外と農村の中間のような小さな街だった。雨の朝、私と向井山、このプロジェクトのディレクターの森真理子、それと地元在住のボランティアで車を運転してくれる倉田真弓さんの4人の旅が始まった。
(左) 水野さん宅でのコンサート (右) 岐阜県加茂郡八百津町の水野さんの家へ
「だれのために……ということ。200人、2,000人のコンサートとは違う、たとえ15分でも、あなたのために……。客席とステージ、音楽とピアニストと観客、こういう関係を再構築したいと思う」と向井山。車はやがて山道へ。途中、川霧の立ちこめる木曽川を見る。しばらくして加茂郡八百津町の山あいの静かな集落に到着。古い大きな木造の民家を改築した開放的な家には、建築家の水野さんと夫人、大学で建築を学ぶ息子さんの3人が静かに待っていた。建築家の家らしく、室内は研ぎ澄まされたシンプルなインテリアにまとめられている。広いリビングの片隅にピアノがぽつんとあった。夫人が結婚する時に母に買ってもらったものだとのこと。向井山は少し家族と話す。そして、演奏が始まった。1曲目は、オランダ人シミオン・テン・ホルトの「悪魔のダンスII」(1986)。19世紀音楽の香りを残すミニマルな曲だった。小さなフレーズが少しずつ変化しながら際限なく繰り返される。テン・ホルトの曲は、音符とリズムは固定されているが、強弱、反復、パターンの繰り返しは奏者が決めることになっている。降りしきる雨の音と音楽が輻輳し時間と空間が混ざるよう。コンサートホールではありえないたおやかでしっとりとした時間が過ぎる。2曲目はオランダ人ペーター・ヤン・ワーグマンの7楽章からなる協奏曲で、向井山がオランダラジオ室内オーケストラと共演し2002年に初演した「エデンの庭師」(2001)より第3部。超絶技巧的でフィジカルな曲は、ヨーロピアンアカデミズムとでもいうべき洗練された硬質なテイストに包まれていた。この曲では、家庭用のピアノは完全に限界を見せる。その後、向井山は少し家族と話し、次の家に向かうことにする。30分ほどのことではあったが、ピアノにとっても家族にとっても歴史的な出来事であったに違いない。
岐阜県可児市の杉下さん宅で
2軒目は、可児市内の杉下さんの家。夫人と近所の親戚など5人の女性と小学生ぐらいの子供6人が待っていた。子供たちはにぎやかに走り回っている。向井山は、「はじめるからちょっと静かにしててね」と子供たちにやさしく言って、ピアノの上にあった置きものの類を片付け、うわぶたを開ける。1曲目のブリュッセル在住のアメリカ人フレドリック・ジェフスキーの「ノースアメリカンバラードより-「Down by the Riverside」(1978)は、ベトナム戦争当時、アメリカで歌われていた反戦のゴスペルを題材にする曲で、本来、政治性をもつ曲なのだが、メロディアスで聞きやすくポエティックでムーディーなもの。途中に即興のパーツを含み、やわらかなテイスト。2曲目は佐藤聰明の「化身II」(1977)。クラブシーンを思い起こさせる細かく震えるようなトランス音を作る。もちろん作曲年からして今日のクラブシーンを先取りしている。3曲目は、ロベルト・シューマンの「アラベスク」Op.18(1839)だったが、それは19世紀音楽とは思えない現代的なものに感じられた。子供たちは静かに聞いていた。演奏の後、向井山は集まった人々と少し話をして家を出る。その時、子供たちが花束を一つずつ向井山に手渡した。
岐阜県可児市の山口さんの家
3軒目は、同じく可児市内の山口さんの家。家の中は、20人ほどの母親と40人近い幼稚園児で鮨詰め状態。その後も母子が続々と訪れ家に入れず庭に人垣ができる。向井山は演奏を始める直前に紙に曲目をメモしプログラムを作る。家の状況にあわせて瞬時に考えているようだった。騒然とした状況下、一曲目は、イタリア人シャリーノの「ピアノソナタ第2番」(1983)。厳密に計算され尽くしたニューコンプリシティーとでもいうべき強度にフィジカルな曲だった。家庭用のピアノは、きしむように唸りを上げ、フルスロットルで高速道路を走る軽自動車のようだった。私は、こんな状況の中、あえて向井山が、この曲を選んだのだと思った。それは「さあ、みんな、おだまり!」と言わんばかりの演奏だった。そして、実際、家は静まりかえる。静まったところで、2曲目は前の家でも弾いたジェフスキーのやわらかな曲。3曲目は田中カレンの「テクノ・エチュード」(2000)。クラブシーンの影響を感じさせるスタイリッシュな曲だった。演奏が終わるとアニメのキャラクターのような夫人が、大量の料理を運びだし、大パーティーが始まった。ご主人も帰ってきて向井山と話す。パーティーは続いていたが、私たちは次の家に向かうことにする。向井山は、大量の花束とこの地方特産の手作りのほうば寿司をもらい大勢の人々の見送りの中、車に乗り込んだ。
この日最後の家は、加茂郡七宗町にあり、少し時間がかかる。すでに夕方になっていた。雨が降りしきる。私は、次の家のことやそこでの向井山の演奏のことを想像し、愉快な気分になった。私たちは旅芸人の一座のようでもあった。車は深い山あいへ。
前嶋さんの家は、新しく立派でセンスのよい本格的な和風建築だった。夫妻と小学生の姉妹と小さな弟、それにおじいさんが静かに待っていた。
ここでの演奏は、向井山がクラブのDJのように即興で、3つの曲を組み合わせたものだった。オランダ人トゥック・ニューマンの「ソイール」(2003)から、シューマンの「アラベスク」、そして、テン・ホルトの「悪魔のダンスII」へ。ニューマンからシューマンへの移行の際には、幾度か行き来があった。それはうねるように曲想が変化する一つの曲だった。
演奏が終わると外はすっかり暗くなっていた。私は、初めて訪れた町で、雨の中4軒の知らない人の家を訪問し、向井山のコンサートを4回聴いた。
ひとり闇夜の中央道を東京へ。
上/山口さんの家を去る。
左から、ボランティアの倉田真弓さん、
ディレクターの森真理子、
ピアニストの向井山朋子
中/岐阜県加茂郡七宗町の前嶋さんの家へ
下/前嶋さん宅でのコンサート